結婚披露宴もいろいろ

結婚して20年。
私は、自分の結婚披露宴のビデオを一度も見直していない。
なぜだろう、あまり、感激とか、感慨とか湧いてこないのだ。
結婚生活は、とても幸せに毎日を暮している。
夫婦、親子仲良く、さしたる波風もたたずに幸せを感じながら暮らしている。
でも、その節目であったはずの披露宴には、あまりあったかい思いがない。
先日、息子のガールフレンドを車で家まで送った時、どういう流れでか「結婚披露宴」の話になった。
「どんな結婚披露宴だったんですか」と聞かれ、「何もかも普通だったかな」と答えた。
ちょっとさびしい気分がした。
夫と知り合って3か月でプロポーズをされ、8か月で迎えた結婚披露宴だった。
楽しい時期ではあった。
ただ、親が「こうしなきゃ」というと、「そうなんだ」と取り入れ、式場スタッフの方に「みなさん、こうされますよ」と言われれば「じゃあ、私たちもそうします」といった具合であった私も夫も漠然と「自分は結婚しないかも」と思って暮らしていた者同士で、ともに30歳を超えたところでばったり出会い、結婚することとなった。
そればかりが理由ではないだろうが、結婚にあたって「一人ぼっちではなくなった」喜びは大きかったが、結婚式や披露宴についての夢は何も持っていなかった。
なので、親や周りの人に結婚披露宴をしたことを喜んでもらえ、二人が夫婦になったことを認めてもらえればそれでよかったのである。
周りからのおめでとうの言葉を受け、にこやかに頭を下げていたように思う。
その場では、それなりの感激と高揚感を感じたように思うのだが、今思い返すと、人の言いなりだったかなと、少しさびしい気持ちになってしまう。
挨拶も笑顔もどこかの誰かをお手本にして過ごした様な気がするのだ。
たった一度の「結婚披露宴」たっだのに、取り返しのつかないことをしてしまったものである。
姪が結婚した。
その披露宴は、ホテルで行われた。
仲人さんはいない。
最近は仲人さんが形式的なものならばいらないとばかりに、仲人さんのいない披露宴も多いのだと聞く。
正面には、花婿さんと花嫁さんが二人にこやかに座っている。
二人の生い立ちと出会い、結婚までの道のりがスクリーンに映し出された。
花婿さんと花嫁さんが毎日仕事が終わってから、自分たちのパソコンで作り上げたのだという。
二人で、思い出を語り合い、振り返りながら、夜遅くまで作業したのであろう。
二人が大事にしてきたもの、今一番大事にしているものがあふれている。
すべての人たちへの感謝と愛情がにじみ出ている。
ご両家の親御さんも笑顔で見つめている。
その後も、いろいろな人々の飾らない愛情あふれるスピーチや歌が続いた。
主役の二人もマイクを握り、親御さんもステージに上がり大合唱している。
あちらこちらに喜びがあふれでている。
花婿さん、花嫁さんの個性に裏打ちされたような、楽しい披露宴に私の心もすっかり温かくなった。
このごろ、テレビで流される結婚式場のCMのなかにも、「ふたりらしさ」を強調したものがある。
選べるのである。
素晴らしいことである。
人生いろいろ。
違う環境で育ってきた二人が出会い、二人だけの歴史を重ね、結婚を決めた二人という存在は、唯一無二。
唯一無二の二人が大切にしたいことも、人とは違って当たり前。
思い描く夢も、実際に築いていく幸せも、すべてが二人のオリジナル。
考えること、伝えたい思いは千差万別。
もちろん、結婚披露宴をするの、しないのかも当事者の自由である。
ただ、もし披露宴を行うのであれば、それを思い出して、心温かくなれる思い出としてほしい。
その思い出の力を借りて、明日への一歩をより力強いものとすることができるものであってほしい。
それには、その式が自分たちにとって本当に意味のあるものであったという大前提が必要となるのではないだろうか。